『遠きの絆(ルーナ・ラー):前編』







   どうして


       あれほどたいせつなものがいなくなってしまったのだろう






 夜が更けていく。
 街には電灯がつき始め、冒険者達が集まる酒場のひとつにもぽっかりとあたたかな光がついた。
 今夜もまた、何人か冒険者達がそれぞれの作業を終えて休みを取りにやってくる。
 シーフのユーリ、バードのミーアとゼロ、ファイターのカルマにシャーとグロス、マジックユーザーのスティレット、クレリックのアノン、アーチャーのレイヤ。
 彼らは顔なじみ同士で話をする傍ら、初対面の人間に挨拶をし、共にひと時の安らぎを楽しんでいた。
 最初に妙なものに気づいたのはユーリだ。

 コトン、

 小さな物音に、スティレットを挟んだ席の向こうをユーリは見た。
(何の音……?)
「どうした? ユーリ」
 不審な様子に、反対側の隣に座っているアノンが気付いたようだ。因みにユーリの視線を挟んでいるスティレットは、通りすがりの女性客との会話に夢中で気付いていないらしい。
「今、物音がしなかった?」
「物音?」
 二人の会話を聞きつけて、ようやく他の皆もそちらのほうを見る。
 カウンター、光の届かぬそこに、いつのまにか何かの影が見えた。
 スティレットに相手にされなくなった女性客も、早々に店を出ていってしまう。
(…何か……妙な感じだ)
(………?)
 アノンとミーアは心の中で違和感を覚えている。
「あれぇ、こんなのあった?」
 ユーリが立ちあがり、手に取って持ってくる。
(あ…そんなに無防備に手に取っていいんでしょうか…)
 ミーアがはらはらしている間にも、ユーリはとっとと皆のところに持ってくる。
 それは一冊の、古ぼけた厚い本だった。
「おい、マスター、こんな本前から置いてあったか?」
 カルマが聞くと、マスターは頭を振った。
「……………」
 シャーとゼロ、そしてグロスは無言のままだ。
「ん〜、何だか変な感じがしますけど〜、もしかしたらお茶目な精霊さんの仕業かもしれませんねぇ」
 次第にはりつめていた緊張をわざとほぐそうとしたのか、それとも地なのか、スティレットのぼけたギャグが飛んだが皆は気にしていない。
「んっ……」
 本を開こうとしたユーリは、鍵がかかっていることに気付く。
「何これ…鍵かかってる」
「日記かな?」
 レイヤも覗く。
 ミーアは知らず知らずのうちに何か悪寒がして退いている。
「いや、日記って感じじゃ…、」
 アノンが言いかけた時、既にユーリは鍵開けを使って開けてしまっていた。
「…………ナ ラー……」
 青冷めたミーアが、何かつぶやく。
「ん?」
 後退していたミーアと必然的に近い場所にいたシャーの耳には聞こえたらしい。
 ミーアは更につぶやいた。
「ルーナ、ラー。本の表紙にそう書いてあるのが…さっき、見えました」
「…俺にも見えた。意味までは分からないが…」
 アノンも同意する。
「ええ? うちそんなの見えなかったよ? それに…何これ、何にも書いてない。真っ白だよ〜」
「……ほんとだ。何にも書いてねぇ。何だこりゃ?」
 ユーリとカルマの言う通り、その本の中身はどのページをめくっても真っ白のままだ。一行も一字も筆されていない。
「誰かが消したのか?」
 シャーが推測すると、「消した、消した、う〜ん、消しても消えないクマちゃんの絵」…かなり苦しいスティレットのボケが飛ぶ。
「ふ〜ん、誰かが消したのかな? でもな〜んにも跡とかないよ?」
 顔を近づけてじぃっと見つめたユーリが、やや飽きたような口調でそう言う。
「…ちょっと見せてくれ」
 ユーリが放り投げようとした本を、アノンが捕まえる。
「…………? …おい、これは魔力の高い人間ならなんとか読めそうだぞ」
「え?」
「どういうことだよ」
「また厄介事っぽいなァ………」
 ユーリとレイヤ、カルマがそれぞれにつぶやく傍らで、アノンはメンバーを見渡し、ミーアとスティレットを同時にそばに呼んだ。
 しかしミーアは悪寒のほうがひどく、魔力を使う余裕がないらしい。
「…………シャー …… なにか こワい モノ …………?」
 隅のほうでシャーの後ろにくっついているゼロが、虚ろな口調で聞くが、シャーはただ「大丈夫だ」と返答しただけである。実際には皆と同じ緊迫感を覚えていた。
 グロスは黙ってワインのグラスをカウンターに戻す。
「ミーアさん顔色悪いですよ、大丈夫ですか? ふむふむどれどれ…………なるほど、じゃあ私が書いてあるものを読んであげることにしましょうか」
 どこまで本気か定かでないスティレットは、台詞と同時に魔力を使いながら本を覗きこむ。
 ごくりと唾を飲む一同。
「………ふーむ……」
 やがてスティレットは息を吐き出した。
「いわゆる死語というもので書かれたこれは達筆な消え失せたものによる一文が…、」
 スティレットの講釈にアノンが鋭く突っ込みを入れる。
「前置きが長い。そして無駄に台詞が間違ってる。とっとと結果を言え」
「あ〜、そう目くじら立てないでくださいよ〜、アノンさん。わかりました、つまりこれは『この世のものでない物体が書いたもの』であることが分かりました」
「それだけか?」
 カルマが聞くと、「もうちょっと頑張れば文字もちゃんと読めそうなんですけどねぇ」とスティレット。
「ということで、アノンさんが分かるそうですので正解はこちらに…」
 なんとも形容しがたい笑みを浮かべてそそっと退散するスティレットを一瞬じろっと見て、アノンは仕方なさそうにため息をつき、かわりに本をもう一度覗きこむ。
「…………! 見えた!」
 アノンの切れ長の瞳が見開かれる。
「なんて書いてあるの〜?」
 だれ気味のユーリは、既に席に戻ってエールのコップに手を伸ばそうとしている。
「…『この物語を読みますか?』…と書いてある」
 アノンの言葉に、皆は不審そうな表情をする。
「それだけ〜ぇ?」
「なんなんだよ…」
「他になんも書いてねーの?」
 ユーリとカルマ、レイヤからブーイングが飛ぶが、アノンにもどうしようもない。
「…………読むか読まないか、という選択肢を求めているような気もするが……」
「選択肢か…あまり余計な行動は取らないほうがいい気もする」
 シャーは言い、ミーアもうなずくように小さく顎を引く。相変わらずグロスも黙ったままだが、赤い瞳は鋭さを増していた。
「そう? 読めるならうち読んでみたい〜」
 しかしユーリはまた本の傍にやってくる。
「俺もこのままじゃ後味わりぃ」
「だな」
 カルマとレイヤも賛成のようだ。
 スティレットはちょっと様子見をしているようである。
 相変わらずゼロはシャーの後ろに隠れた格好で、何も考えていないように見えた。
「…じゃ…」
 アノンが判断を下す。
「読む」

 とたん、

 フッ、と一同の周りが真っ暗になった。
「な、なに〜? 何が起こったの〜?」
「あかり消したの誰だよ!?」
「タチが悪いぜ…!」
「…………あ、…な、何かが、…」
「どこかの悪い精霊さんですか? 悪戯するとお仕置きですよ〜」
「…………シャー … ゼろ 暗いノ や …………」
「…大丈夫だ」
「…………」
 互いに互いのいる場所もわからない。
 なんとか声の感じで大体の距離と位置がわかる程度だ。
「こ、これは………!」
 アノンが思わず手を離した瞬間、本はページを開いたままの状態で闇の中に浮かび上がる。
『この物語にかかわった人は全てを捨てなくてはいけません。まず一番大切な人間を思い浮かべてください』
 アノンではなく、本そのものから何者かの声が発せられる。声と同時に次々にページに光る文字が浮き出始めている。
『思い浮かべてください。時がこのまま止まってしまいますよ』
 声の感じでは、青年のようである。
 否応もなく、全員はそれぞれに「一番大切なもの」を考えることになった。
(一番大切なのって…パパに決まってるよ〜)
(すみれの鉢植え…かな…)
(兄貴…………)
(……ありていに考えても…ないですねぇ…)
(ジンニーさん……)
(…自分だな)
(タイセつナ ヒ と ………………? …………)
(…妹…………)
(昔飼っていた兎だな………)
『…思い浮かべましたね? さて、たった今からその人、またはものはあなたの中で消滅しました』
 各々が沈思していると、見計らったように青年の口調が穏やかなものから意地悪げな笑みを含んだものにすりかわる。
「な、なに言ってるの〜!? 死んだりしてないよ!」
「…むかつくやつだな…!」
「なぁ、こいつ攻撃しちまっていいよな?」
 アノンの返答より早く、レイヤが弓を取り出し本に向けて打つ。
 本はあっけなく砂のように飛び散る。
「…なんだ、案外やわじゃねぇか」
 カルマの声を遮るように、ミーアが悲鳴のように声を上げる。
「ま、まだいます……!」
「そこだ……!」
 ミーアとアノンの視線、そしてスティレットも何気なくそちらを見たその時、
『くくく………』
 含み笑いと共にまったくダメージを受けてない様子の本が三人の視線の場所に現れる。
「こ、こいつ何なんだ!?」
 レイヤは再び弓を番えようとしたが、瞬間体が硬直し動かなくなった。
「あっ…か、体がっ、…!」
「動かなくなっちゃいましたねぇ…まあ星は動いているようですし〜…」
「スティレット〜、こんな時に何余裕かましたこと言ってんの〜!?」
『「物語」が終わるまでは動けませんよ…』
 青年の声が続く。
(少し狂気じみている………?)
(せ、正常な感じがしない…)
 アノンとミーアは凶悪的な圧迫に額に冷や汗を浮かべながらもそう感じ取る。
『あなた達の大切なものは今からぼくのものです。「命令」を遂行するまであなた達の大切なものは決して帰ってきません。任務を遂行するまでこの物語に従ってください』
「勝手なこと…言うんじゃねーよっ」
「くそっ…物理攻撃がきかねぇんなら魔力はどうなんだよ魔力組!」
「…無理、だな。身動きが取れない…」
「め、命令…なんて、…いやです………」
「そうですねぇ…精霊さんもたまにはお休みしたいようです………」
「…………」
「………(タイせつナ モノ ……) ……」
「………異様な……」
「命令って何のことなの〜!?」
 強烈な圧迫に必死に耐えながら言葉を吐き出す一同に、青年の声が続く。
『……たったひとつのことをやり遂げてくれさえすればいいんですよ……。ここから北に向かった山の奥深く…眠っている氷の鏡を取ってきてくれさえすれば……』
 意識が遠くなっていく皆の耳に、ぼんやりとそんな声が聞こえる。
『…………たいせつな…もののために…………、…』
 …9人の意識は、完全に暗転する。





 皆はほぼ同時に目を覚ました。
 朝のあたたかな光が幻亭の窓から射し込んできている。
「ん…………」
 ユーリは目をこすり、他のメンバーも起きあがり始めたのを認める。
「なんだ…? 何でみんなして床に突っ伏して寝てんだ……」
 カルマはそして「本」のことを思い出し、怒りを含んだ目で見渡すと、既に起きて何か探していたアノンが視界に入った。
「朝か…………昨夜のは夢だったのか?」
 シャーも覚えているらしい。レイヤは悔しそうに唇を噛み締め、ミーアは青冷めている。ゼロの瞳からは虚ろさが少し消え、代わりに恐怖と哀しみの色。グロスは沈思しており、スティレットは相変わらずのほほんとした感じだが夢見が悪いとつぶやいたのがユーリの耳には聞こえた。
「本は消滅してるな…。だが妙なものが残ってる」
 アノンが拾い上げたもの、そこに全員の視線が集中する。
 それは一枚の、

 人魚の鱗、
     ……だった。





《中編に続く》