全身が痛い。
氷の洞窟から帰ってから一週間、ずっと。
極度の緊張によるためだ。そして脇腹に突き刺した氷の破片、自分でつけた傷が。
(あの時見た、あの煙の中……)
悪夢にうなされる。ゼロは思い出す。
シャーが同じ部屋にいるのに。すぐ傍で眠っているのに。
こんなに不安なのは彼に守られるようになって初めてだ。
……もう、限界なのだ。
ここにこうして甘えていられるのも、誰かに守られるのも。
アメジスト色の煙の中に見た、人物。大切な者を否応無しに見せつけられた。知らされた。
それは、…………。
ゼロはゆっくり目を開ける。涙が枕に滑り落ちる。
ぼやけた視界に、シャーの眠っている姿。
……狂気がひどくなっていることに、ゼロは気付いていない。
ただ意識だけが妙にはっきりとしていた。
(シャー………)
涙がとめどない。
もう、……離れなくてはならない。
この安楽の生活から。優しい腕から。夢の中から。
(私は甘えてはいけない)
赦されないのだ。永久に。一生を終えるまで。
だから、……。
(…………)
ゼロは起き上がる。そっと、音を立てずにシャーの寝顔を覗きこむ。
……彼は既に気付いているのだろうか? ゼロが起きているということに。
狂っていることにも気付いていない彼女には知る術もない。
「…シャー……」
そっと、本当に声が出るか出まいかというところで彼の名をささやく。涙がぽたりと彼の枕に落ちる。
「……ありがとう。……忘れない…………」
忘れない。
忘れられるわけがない。
こんな自分を、
他人の自分の面倒を見てくれた優しい人のことを。
それが淡い恋だということにもゼロは気付いていない。
「………っ…!」
嗚咽を何とかこらえ、ゼロは口元を片手で覆い、シャーを起こさぬようそっと離れる。
この嗚咽の原因が、鋭く胸を突き刺すものが何なのか、ゼロには分からない。
(離れたくない)
離れたくない。この人から。
(でも、……もう迷惑はかけられない…)
いつまでも甘い夢に浸っているわけにはいかないのだ。
……ゼロは裸足のまま、扉へ向けて歩き出す。
ギイ、……
「………、…、……」
……パタン、、、
「………うっ………!」
扉の音に耐えられない。
ゼロは走り出す。闇の中よりも一人でいることよりも、自らの手で隔ててしまった優しい人との「境」に耐えられなかった。
胸が痛い。何か刺が何千本も突き刺さったように。
もう、ないのだ。起きたときに誰かがいる安堵感も。
忘れなくてはいけないのだ。優しく頭を撫でてくれた感触も、抱きしめてくれた涙が出るほどのぬくもりも。
(……夢、…)
そう、
みんな夢だったんだ。そう思えば哀しくないはず。
哀しくないのだ。苦しくもない。
また、元の通りに戻っただけだ。
ゼロはユーリを思い出し、またユーリを守り続ける。
何も知らないふりをして過ごし続ければいいのだ。誰も自分の存在になど関心を払わないだろう。
こんな穢れた自分には。
……ユーリでさえ。
それでもゼロは元に戻る。女の姿でいた時に起きた出来事。会った人達。例え本当に忘れたことがあったとしても。
覚えていても、素知らぬふりをするだろう。
ユーリに必要とされなくなっても、ゼロは哀しむ素振りなど絶対に見せないだろう。
(……覚悟は出来てる………)
出来ている。
意識がはっきりしたことで「狂気」から完全に抜け出したことに気付かないゼロはそう強く決心する。
否、既にもう前の狂気よりひどい色がその瞳にはある。
………自分でそれに気付くはずがない。
ゼロは走る。
闇の中を、胸の詰まるような孤独の中へと。
The End......